beWell
知得雑話 クイズ ミュージックカフェ メルマガ 歴史探訪 素材集 PDF版
歴史探訪
Back Number
2008.10
日本のエジソンと呼ばれた〈藤岡市助〉

2008.07
森羅万象の探究者〈南方熊楠〉

2008.05
日本初の女性化学者〈黒田チカ〉

2008.01
日本初の天体観測をした鉄砲鍛冶〈国友一貫斎〉


Vol.23 日本の女医第1号〈荻野吟子〉


日本の女医第1号〈荻野吟子〉の人物像と波瀾に富んだ生涯をたどります。

後世に引き継ぐ道を創り、逆境に立ち向かった強靱な精神

 厚生労働省が2年に1回実施している〈医師・歯科医師・薬剤師調査〉では、平成16年度における全国の医師の数は270,371人で、病院と診療所で働く医師は、全国で約25万人、このうち男性が約21万人で女性が約4万人と、女医が圧倒的に少ないのが現状です。

 これをさかのぼって調べてみると、昭和のはじめには3千人ほど、大正の始めにはわずか80人ほど、そして明治の始めには女医は一人もいませんでした。なぜなら、当時は女性が医学を学ぶ術がなく、法的にも許されていなかったためです。この難関を打ち破って苦闘の末、一人の女医が誕生したのは明治18年(1885年)のことでした。

 その女医第1号〈荻野吟子〉は、いったいどんな女性だったのでしょう。今回は、34歳で医術開業試験に合格して日本初の女医となり、その後キリスト教と出会って北海道に入植し地域医療に励むなど、幕末から大正時代にかけて波瀾に富んだ生涯を送った荻野吟子の人物像をご紹介します。



鹿鳴館スタイルに身を飾った女医第1号になったころの吟子の肖像(明治18年)。
東京順天堂病院に入院し婦人科の治療を受けたことから、女医の必要性を痛感し、
自ら日本の女医第1号となった〈荻野吟子〉(1851年-1913年)は、
女性の地位向上や衛生知識の向上に大きく貢献しました。
※画像提供:熊谷市



1.豊かな才能と病苦

〈女には要らぬ利発ぶり〉を発揮した少女時代


 吟子は、幕末の動乱期である嘉永4年(1855年3月3日)に、埼玉県大里郡秦村(現在の熊谷市妻沼町)の名士の家に生まれました。父親の荻野綾三郎は近隣に名の知れた豪農で、当時の屋敷は長屋門と白壁、樹木が美しい堂々たるたたずまいだったそうです。吟子は10歳の頃から江戸の儒者(儒教を自らの行為規範にし、そのために儒教を学んだり研究したりする人)だった寺門静軒(てらかどせいけん)に学び、父親を〈女には要らぬ利発ぶり〉と不安にさせるほど熱心に読み書きを修得していきます。

 やがて寺門静軒の創立した両宜塾(りょうぎじゅく)を継承した松本万年(まつもとまんねん)のもとで漢学と漢方医学を学び、才能を豊かに伸ばしました。しかし、両親は本人の意思とは裏腹に吟子を近くの旧家に嫁がせたものの、2年近くで離婚されてしまいます。表向きには、〈本ばかり読んで夫の世話をしない嫁〉〈病弱で子供が生まれない〉などを離婚の理由にされましたが、実のところは花柳界で遊んでいた新婚の夫から淋病をうつされ、吟子は心身ともに衰弱していました。

 現在なら妻の権利が法的に守られているため、夫の非を訴えて堂々と実家に戻り、離婚に際しても慰謝料を請求できるところですが、明治初期はいかなる理由があろうとも、いったん嫁いだからには簡単に実家に戻るなどもってのほかだと批判を受ける対象となりました。
 
 そのため、離婚された吟子は実家でのんびりと療養することもできず、人目を避けて上京し、明治初期に御茶ノ水にあった順天堂医院に入院します。この頃の順天堂病院は西洋医学を輸入紹介したことで有名ですが、男性医師によって診察・治療される羞恥の思いが吟子をみじめな気持ちに陥らせました。入院中は病院の布団をかぶって何度も泣き、悲しい気持ちにさいなまれ続けた吟子でした。

 しかも、2年間の入院生活の間に父親が亡くなり、死に目に会えなかっただけでなく、兄嫁が仕切る実家で出戻りの小姑として肩身の狭い生活をという境遇が待ち受けていました。これを機に、吟子は今後の生き方を真剣に考え、自分で医術を勉強して〈自分で自分の病気を治そう。私と同じように苦しんでいる女性たちを助けよう〉と考えるようになりました。




吟子が漢学と漢方医学を学んだ当時の両宜塾(りょうぎじゅく)
※画像提供:埼玉県  

 

【1】 【2】 【3】
次ページへ→

Page TOP